9/14は『政治的省察』対談イベント最終日でした。最終回ということもあってか、多くの方にご参加いただきました。ありがとうございました。実はこの3日間の前にプレイベントもあったので、実質4日間の対談イベントとなりました。まずはざっと前回までの流れから。
6月22日の思想ゼミは、『自己犠牲とは何か』の田村均さんがゲストでした。田村さんは『政治的省察』を読み解きながら、次のようなテーゼを立て、縦横に論を進めていきます。「人間は、事実、共同的な存在であるのに、人間を共同的にしている力を基礎づける手立てが存在しない」。神、自然法、理性のような理念を基に統治システムが基礎づけられてきた。にもかかわらず全体主義のような矛盾を抱えてしまうのは何故か。大きな問いであり、哲学や神学のみならず、法学や政治学、考古学・生物学などの知を総動員しても答えられるかどうか、というくらいの大きなテーマ、非常に刺激的な一夜でした。
8月4日は×齋藤純一さん。この日は主にアレントが話題となりました。アレントによれば政治とは統治システムではなく、差異を競い合う複数性だ、といいます。(詳細は前々回のテクストを参照いただければと思います)。田村さんの言を借りれば「基礎づける手立て」とはこの複数性・公共性、ということにもなりえます。一方で、この複数性がいつのまにか束ねられ、現代のような過度な管理社会や監視社会を生んでしまうのも事実。常に差異が差異のままにされず、政治であれテクノロジーであれ、そのような大きな権力に呑み込まれてしまっている。いったい何が進行しているのでしょうか。
8月24日、×立岩真也さん。「あっていい政治があるはず、それはどんな政治か」と問いかける立岩さん。(詳細は前回のテクストを参照)。『政治的省察』で引かれたレーニンの「国家の廃絶」の目論見も、「人間を共同的にしている力を基礎づける手立て」の試みだったはずです。ところが廃絶を目指すのに、目指すための大きな権力機構が必要となる。そのような矛盾に陥らず、最小限の国家をどのように機能させるか。不平等をどう是正し、どのように配分するのか、といった具体的な方策をどう実現するのか。立岩さんの病・障害者に寄り添った視点からの発想もまた、複数性を担保することにつながっていく。ではいったい、優生学のような「手立て」をどう捉えるか。いわば差異を抹消するような優生学は、どのように批判されうるのか。
9月14日は、そのような一連の問いが開かれまた行きつ戻りつしながら、実に様々な話題が錯綜した感があります。とても簡単にまとめられるような内容ではないのですが、いくつかの話題にしぼって記しておきたいと思います。まず冒頭に、宇野さんの『他者論序説』を引きながら李静和さんが強調したのは、何が政治か、ということでした。この対談イベント自体に、生きている人間が集う、それが政治だ、といいます。そして、他者とどう関わるのか。友情でもって関係を持ちうるのか。それが政治だ、ともいいます。アレントがメインストリームの政治学から長らく無視されてきた存在であったのは、政治学が具体を捨像しマイノリティを排除してきたからに他ならない。いままさにアレントが読まれているのは、ドイツ語を母語としながら、亡命ユダヤ人としてアメリカに渡ったアレントの生き様・その具体的な思考そのものなのでしょう。政治は政治学ではない。学問ではないしまして業績などではない。まずはこのことの確認です。
話題は「芸術の砂漠」に。ベケットの小説が小説そのものを破壊するような、物語の破片や屑しかないような物語だった、とは宇野さん。終わったところから始まる、とベケットに言及しながら、高橋悠治さんは20世紀の情況について語ります。1950年代の思潮は全てを否定することにあったといいます(むろんベケットもその世代)。次第に60年代後半になってくると構成や構造が求められてくる。そのとき「理論が必要だが、それが固まってしまわないために何ができるか」と問いかけながら試行すること、などと淡々と続けます。秩序・形式・全体のような概念と安易に結びつきやすい「理論」と、注意深く疑いながら付き合っていくこと、と応答する宇野さん。それは例えば革命の理論が硬直化してしまい思うように成功しなかった史実を想起させます。いわゆる構造主義と呼ばれるような思想の運動も、この時代に属することでしょうか。
政治理論も国家論も、システムを論じるのではなく、逆から論を立てること、弱い者の立場からどのように論を言えるか。そんな風に高橋さんは続けます。皿を洗って、成し遂げても、また次の日に皿を洗わなくちゃいけない。そんな日々の勤めの政治はどうなのか。いわゆる台所の政治、台所から考える政治です。70年代にタイの抵抗歌を歌う水牛楽団の活動、三里塚闘争など、多くの市民運動に加わってきた高橋さんの、率直な見方でもあります。光州事件(5·18光州民主化運動)をテーマにした『光州1980年5月』も悠治さんの作品。光州の記憶をどう残し、広がっていくか。作品として固まるのではなく、どうつながっていくか。尹伊桑のオーケストラ曲にも光州事件をテーマにしたものがあるけれど、もっと小さく、だからこそ伝わっていくもの、そんな可能性を語ります。
対談の終わり頃に、フーコーのアナルケオロジー(アナキズムの考古学)に言及するお二人。そもそもアルケオロジー(=考古学)の語源を遡れば、はじまりなどない、と言える。アレントによれば、はじまりと起源は同一ではなく、起源がないことがはじまりなのだといいます。ベケットがはじまりも終わりもないような作品を書いたことにも似て、アレントは起源そのものを斥ける。20世紀のファシズムは、起源がある、と論を立てた。それは人種主義の支柱でもあるだろうし、理論の硬直化の要因でもあったはずで、そこから排除のシステムが生まれてしまうことになる。このことはいま現在も連綿として未解決の問題であり、これからも問い続けなくてはならない「人間を共同的にしている力を基礎づける手立て」の問題に他なりません。
質疑応答では、いま現在の香港の状況、政党的なスローガンによらない異議申し立ての可能性、冷戦後の新しい冷戦、文化産業としての音楽などのテーマ。また最後に高橋悠治さんが語られたのは、『権力を取らずに世界を変える』のジョン・ホロウェイ、マレイ・ブクチンのソーシャル・エコロジーなどアナキズム系の文献・運動、クルド労働党やメキシコのサパティスタ、ローザ・ルクセンブルクなどなど。また、宮本常一の『忘れられた日本人』で言われる「寄合」の可能性のくだりは印象的でした。
政治は確実に腐食が進み、もはやその亡骸が砂粒となっているかのようです。確かに、そこかしこに砂漠が広がっているのかもしれません。だからこそ、このような対談が水のように湧き、砂漠に浸透していく。湧き水もまた、そこかしこにある。詩や音楽もまた湧き水となりうるのか。表現の不自由を強いられる今日の芸術はどうなのか。涯のない問い、終わりも起源もない砂漠、そんな時代を生きるわたしたちはあまりに喉が乾いているようです。この日は甘くなく、決して苦くもない新鮮な水を口にした感がありました。各回ご参加の皆さま、ありがとうございました。
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